読んでいただきありがとうございました。 片足鳥居のすぐそばにシイエばあちゃんの墓はあります。ここにはハルさんの遺骨はありません。今も長崎のどこかで眠っています。 私は幼い頃、外に出るのが怖かった記憶があります。なぜなら、街に溢れる被爆者が怖…
火葬場では皆が時間一杯までシイエの顔を目に焼き付けようとしていた。孫達は手紙を棺に差し込んでいった。 煙草を嗜んでいたシイエのためか煙草も入れられたが、なぜか封が空いていた。孫の一人がライターを入れようとして注意をされている。 重い鉄の扉が…
自宅に帰ると孫達、仲間達が次々に訪れた。体調を気遣い短時間で切り上げる者が多かったが、その度にシイエは寂しげな表情を浮かべた。 それから約一か月、シイエは最後の時を迎える。自宅で意識を失い救急車で病院に搬送された。 死の直前シイエの体は激し…
いつものように自転車にまたがりゲートボール場を目指すシイエ。いつものように仲間と笑い合い、穏やかな時間が過ぎていった。 シイエは広場の真ん中に突然倒れ込んだ。シイエ二度目の癌の発症である。この時初五郎の死から12年が経過していた。 近くには義…
長崎県大村市、ここに初五郎とシイエの終の住処があった。子供らが独立後年老いた二人は隠居生活を始めたのだ。 いつの間にか孫は15人にまで膨れ上がり、夏休みともなると三部屋しかない小さな家は子供達でぎゅうぎゅうづめだ。 シイエは布団の上で暴れる子…
政雄の訃報を初五郎は病院のベッドで聞く事になった。点滴のチューブを引きちぎり着替えを始めようとしている。「シイエ!喪服ば持って来い!」 声を上げたものの、その場に倒れ込んだ。息子達がひきとめる。「俺らが兄ちゃんはちゃんと送ってきてやる心配…
政雄の苦悩もまた見えない悪魔との戦いである。長崎にいたらこんな苦しみはなかったのかもしれない…被爆者は被爆者同士で結婚すべきなのだろうか。 少なくとも大阪の人間はそう考えているように思え、孤独感は痛いほどだった。 放射能の解明がまだ進まない…
政雄の人生もまた波乱の連続であった。政雄の繊細さは中学に上がる頃加速していった。政雄は腹違いを気にして周りを気遣い、15歳で家を飛び出したのだ。 シイエはもちろん子供達を差別したことなどたかったが、そこは思春期に自分の存在を考え始める時期の…
虚勢を張るも、初五郎は父親としての葛藤に苦しんでいた。家族にひもじい思いをさせる日が来るのではないかと危機感に苛まれていたのだ。 それでも子育てで働けないシイエは、毎日額に汗して働く初五郎を尊敬しており、何より皆を守ってくれているのは初五…
源さんを中心としてシゲと初五郎それぞれが連携を取りながら事業を拡大していく中、ある日シゲが血相を変えて初五郎の元に駆け込んだ。「初!あいつ夜逃げしやがった!もう金は入らんぞ!」 納金を踏み倒されたのだ。若い職人のひとりが独立をしたいと言い…
大切な存在を立て続けに失ない、シイエの心は限界だった。悪夢にうなされては目を覚まし、シイエは家事も仕事も手に付かず話す事もやめてしまった。 その間初五郎はシイエの代わりに子供らの面倒をみ、床にふせったシイエの世話も献身的にこなしていた。 初…
その後シイエは24歳で初めての女の子を産み、順風満帆かと思われた。戦後の混乱から入籍をしていなかった事に気がついた二人は、シイエの両親に改めて挨拶に行こうということになる。 シイエ達は長崎で相変わらず忙しい毎日を過ごし、なかなかシイエの実家…
店に戻ると皆が集まってきた。 山蘭やスミレ…街では見れない素朴な花達、シイエの田舎がその小さな苔玉に見事に再現されていた。ずっと長崎に居た奥様には興味深い仕上がりだった。「かわいい…」 皆が口々にそう言って手に取って見とれていた。店先につり下…
シイエは一度田舎にもどることにした。「子供らを頼みます、すぐに戻りますから」 思い立ったら動かずにはいられないのがシイエである。ヨッコとおキヨさんに子供を預け、シイエは原爆以来初めて田舎の土を踏んだ。 畑にはおかやんが汗まみれで仕事中だ。「…
皆でこれからの事を真剣に話し合った。シイエは自分で花を作り売るという夢を諦めてはいないと、この時初めてヨッコに話してみた。 初五郎は源さんの仕事がますます忙しくなり、その手伝いに走り回っている。 街も少しずつ片付き、人々に花を愛でる気持ちが…
あれほど笑いに包まれていた宴席だったが、一瞬にして沈黙に包まれた。 しばらくは誰一人言葉を発する事ができなかった。源さんが沈黙に耐えきれないように口を開いた。「番頭さん…よく生きていてくれた、これからは旦那の代わりにこの店を盛り上げて欲しい…
そんな奥様の様子を源さんだけは見逃さなかった。すかさず視線を向けた。「ヨッコちゃん…番頭さんをお風呂にいれてあげなさい」 ヨッコはその一言ですべてを悟り、静かにうなづくと番頭を奥へ連れて行った。奥様はその場にへたりこんでしまった。「大丈夫か…
宴席に血相を変えて帰って来たシイエを見て、その場にいた全員が凍り付いた。「ヨッコちゃ…」 言いかけたところで源さんとシゲ、それに初五郎が飛び出してしまっていた。3人とも呆れるくらいに血の気が多いのだ。 シイエがヨッコの手を取り台所に駆け付け…
その夜は親しい者を集めて久しぶりに花幸に笑い声が響いた。源さんやシゲさんの姿もある。おかよもヨッコの祝いと聞き、嫁ぎ先から駆け付けた。 ぼっちゃまは朝から働きづめだったからか、黙々と料理を口へ運んでいる。みんな飲んで食べて…たくさん笑った。…
奥様は本当に自分の娘の事のように喜んだ。「ここもにぎやかになるわね…私も元気を出して働かなきゃ」 二人は嫁いで行ったおかよにも子供が生まれると聞かされた。奥様は興奮気味に話を続ける。「かよにもヨッコちゃんにもシイエちゃんにもまだまだ生まれる…
家族で花幸に身を寄せ、新たな生活が始まった。絶望の淵にいたシイエにも新たな夢ができた。 自分で育てた花を自分で売りたい…ここまで経験してきた事があまりに辛すぎて、花を見る事すら忘れてしまっていたのだ。 過ぎた事は胸にしまい、少しずつ前を見て…
暗くなりかけた道シイエは急いだ。早く初五郎に話がしたかったのだ。「ただいま…」「奥様は…元気やったか?」「うん…だいぶ痩せとったばい…旦那様も番頭さんもおらんで…お店の奥の部屋が空いとるけんそこに住まんかって言われた…あんたにも源さんが仕事頼み…
待ちにまった奥様との再会であったが、店もまた、大変な状況にあった。旦那様と番頭さんは原爆が落ちたあの日、花農家へと出かけ、そのまま帰ってこなかったという。 心労からか奥様はやつれ、うつむいたまま小さな声で話をするようになっている。そんな奥…
道すがらシイエは源さんの話を聞かされた。「親方の指示で来たんですが、花幸の方が気になっていたもんで…急で申し訳ない、後で初五郎にも来てもらいます。」 これからは鉄骨が主流の大きな建築物が増えるだろうと見越した源さんは、初五郎の職人としての腕…
ただただ漠然と先の事を考えてみるも何も浮かぶはずもない。 そんな毎日がいくらか続いたある日、シイエ達の前に一人の男が現れた。男は二人を見るなり安堵の表情を見せた。「やっとみつけました!ご無事で何よりです」「シゲさん!生きていたんですね!」 …
初五郎は初義の最後を看取り、そのまま外へ出て三日間行方がわからなくなった。シイエはその事を気にもとめなかった。ただただ姿が変わってゆく初義のそばで一日一日を呆然と過ごした。 時折初義の亡骸を抱き締めては、その冷たさに恐ろしい距離を感じ打ち…
シイエはしばらくして炊き出しの芋を少し抱えて帰ってきた。初義はあまり口を開けられない。シイエはやわらかくふかした芋を小さくちぎって初義の口元へ運んだ。「ほら!はっちゃん食べてごらん」 初義は口を少しあけ二口だけ食べた。「もうよかとね?」「…
初五郎は初義の姿を見て胸を詰まらせた。込み上げてくる涙を痛む喉元で飲み込みシイエに小声でつぶやく。「もうだめなのか?」 シイエはだまって首を振るだけだ。「はっちゃん、おとうちゃん帰ってきたけんね!会いたかったもんね、はっちゃん…ほら!あんた…
初五郎は一人の女を見つけた。シイエに似ているような気がして立ち止まったのだ。 違う…女の顔は苦痛に満ちており、ひどくやせ細り視線は定まらずにいた。常に燐とした美しさをたたえていたシイエとは別人に思えた。 また辺りを探してみるも、どうしても先…
周りはどこを見ても目をそむけたくなる風景ばかりだ。時折アメリカ兵がうろついているのが見える。初五郎はその度身を隠して自宅を目指した。 自宅付近に近付くにつれ足元はさらに熱くなり靴が焼けていく、初五郎はボロボロになりながらも歩を進める。 そし…