初五郎は長崎へと向かっていた。幸い諫早までは汽車が通っているが、諫早からは歩かなければならない。しかし…諫早までの道程も永遠かのように長く感じられた。 大怪我で苦しみ自分を待っている家族、あるいは…どこかで野晒しになっている事まで頭をよぎっ…
初義は小さな体でがんばって生きていた。時折うわ言のようにつぶやいている。「おとうちゃん…」 シイエは絞り出すようなその声を聞く度に胸をつまらせる。「おとうちゃん会いたかねぇ」 初義に聞こえてるのかわからないまま少し大きな声で一生懸命話しかけ…
何をみても平気だと、そう思う事でシイエは自分自身を支えてきたのかもしれない。しかし、時折言い知れぬ恐怖心がシイエを襲っていた。 上空で米軍機が旋回を続けている。そのときシイエには憎き敵という感覚は不思議となかったものの、ただただエンジン音…
このままここに居ても自分らもあの人のようになる。息子も死んでしまうかもしれない… そんな思いにかられシイエは立山の病院を目指した。息子二人を抱えて歩ける政雄を励ましながら病院を目指す。「少し川で休んでいこうか…」 土手から川を覗き込むと、川に…
やっと下まで降りてきたシイエは人影をみつけた。そこは小さい防空壕で、何人かの生き残った人達が身を寄せあっていた。 その人らもシイエ達を見るとてまねきをした。近付くと初義のために場所を開けてくれたが、あまりの悪臭にシイエ達は激しく嘔吐した。 …
泣き声を頼りに義輝を探すシイエ。あの瞬間、確かにその腕に抱いていた。泣き声は床下から聞こえていた。 シイエは狂ったように瓦礫を掻き分け義輝を引っ張り出した。まだ生まれて二か月の義輝は首が座っていない。義輝の首は背中につくかというくらいに曲…
その日はとても暑く、昼近くなりシイエは義輝にお乳を与えていた。政雄と初義は相変わらず木の上で勉強中だった。 シイエは遠くでサイレンの音を聞いた気がした。「空襲?いやまさか…」 警報は解除されたばかりだった。広島の記事に過敏になりすぎているの…
しばらくしてシイエは仕事に復帰した。休んでいる暇などなかったのだ。 朝二人を学校へやりそれからお店へ向かい、シイエの留守中はハルが義輝の面倒をみていた。初五郎がいない中シイエは稼ぎ頭なのだ。 やがて子供らも夏休みに入り二人でハルの手伝いや勉…
おかやんが少し寂しげに呟いた。「おまえがお産の近うなったら行くけんな」「ありがとう、おとやんもおかやんも体に気をつけてね」 すぐに会えるのだからと、挨拶もそこそこにシイエは田舎を後にした。 長崎に戻るとハルがひとりで家を守っていた。またみん…
初五郎は本当に嬉しかった。しかし素直に喜べない自分もいた。「すまない…」「なぜあやまると…喜んでほしか」「嬉しか…嬉しすぎて震えとる…ただお前は初産だ…不安もあるやろう…なのに自分は」「あんたはお国から呼ばれたとやけん…大丈夫!立派に産んでみせ…
新しい暮らしが始まってもシイエは店の仕事は続ける事にした。 初五郎が戦場に行くことになっても、家族となったハルや政雄、初義を自分が守らねばと感じていたからだ。そのために少しでも貯えが欲しかったのだ。 二人の子供もすぐにシイエをお母さんと呼び…
朝は誰よりも早く起きて朝食の支度を済ませ、昼間は学校に工場、店の仕事に稽古まである。忙しい毎日に暇をみつけてはシイエは愛しい人の家へ通い続けた。 次第に彼の妹もシイエに気をゆるし自分達の事をあれこれシイエに話して聞かせた。彼女は名前をハル…
そんな中戦火は次第に激しさを増していった。女も例外なく国のための労働に駆り出される。シイエ達も兵器工場での労働を強いられた。 シイエは人殺しの道具を作るという仕事に違和感を覚えながら、しぶしぶ工場へ向かった。 シイエが辿り着いた工場にあの男…
シイエ達は仕事を終え、お嬢様のおかよと三人で稽古にでかけるのが日課となっている。三人で出掛けるのが忙しい毎日の中楽しみのひとつであった。 その日も稽古の帰りにまたあの男性と出会う。シイエと彼は二言三言交わして別れた。「ヨッコちゃん…あの人誰…
「おキヨさん、ちょっといいかしら!」 奥の部屋から奥様のおキヨさんを呼ぶ声がする。「はい、ただいま」 しばらくして奥様は喪服で現れた。「いってらっしゃいませ…」 シイエ達もおキヨさんと共に奥様を送り出す。「おキヨさん、奥様誰かのお葬式ですか?…
ある朝シイエが朝食の手伝いをしていると、外を掃除していたヨッコが血相を変えて入ってきた。「シイエちゃん!ちょっと…」「何ね?今忙しかと」「よかけん早う来んね」 ヨッコがシイエの腕を掴み外へ連れ出す。「あの人の奥さん亡くなったげな…」「うそや…
ヨッコに自分が抱える想いを話せた事でなんとなく楽になったシイエ。その後は毎日の仕事に追われ、その事はあまり考えないようになっていた。あの男性も店の前を通らなくなっていた。 ある日ヨッコが慌ただしく店に戻りシイエに言った。「シイエちゃん、あ…
あれから何度か春が来て…また冬がきて、季節がいくつかめぐり、二人の幼かった少女は立派な女性に成長していた。 その間、花幸の奥様は、花屋に奉公する以上はこれだけはとお茶にお花…果ては日本舞踊までふたりに稽古事をさせていた。 結果…十代も後半に差…
学校へ行ける…自分が学校へいけるのだ…シイエ達は繰り返し繰り返し嬉しさを口にした。 ある日曜日、奥様は二人を連れて百貨店を訪ると、服や鞄など、学校に行くために必要な物を全て揃えてくれた。 夢のようだった。しばらく「奉公人」という立場を忘れてし…
帰りが遅くなった二人を旦那様が待っていた。二人の表情から何かあったなどと考えていた。夕食も終わり奥座敷へ戻った国夫は幸枝を軽く問い詰めた。「お客は誰だったんだ…?」「源さんよ、源さんとこの若い人がちょっと難癖つけたから久しぶりに啖呵きって…
幸枝の貫禄はいつもと違う空気を作り出す。「シゲさんも元気そうね、少し歳とった?あたしもだけど…」「いえ…お幸さんはまだまだ若いです」 そこへ親分が口を挟む。「お幸…久しぶりに一緒に飲まんか!今日は俺の誕生日たい」「源さん、ごめんなさいね、今日…
幸枝は番頭さんと二人京の間で一本一本丁寧に花を生けていく。そこへ二人の若い男がずかずか入ってきた。「なんや?こん百合は、もっとよか百合はなかったとか!花屋がこがん花ば出してよかとや!」「申し訳ありません…せめて一本一本綺麗に生けさせてもら…
いつものように上得意には国夫自らが出向く予定にしていた。「幸枝、羽織りを出してくれ」 幸枝は何やら考え込んでいる。「幸枝!羽織り」「あ…はいはい、あなた…その花私に持って行かせてくれないかしら?」「お前がか?俺はありがたいがお前がおかっつぁま…
二人で頭を悩ませていると店先から声がした。「ただいま戻りました」「番頭さん、ちょっとこっちへいいかしら」「はい、なにか?」 番頭さんはめったに奥座敷には入らないので随分手前で返事をしてしまった。「ちょっと入って」「はい失礼します」 なんだか…
奥様(幸枝)も幼い頃貧しい暮らしから家族を救うため、幼くして長崎へ出た奉公人の一人だった。 類いまれな美貌から芸者の道を歩んできた幸枝だが、旦那様(国夫)に見初められ花幸の女将になるまでの道のりの険しさは計り知れない。 幸枝はその美貌と人柄から…
三人は昼過ぎに店へ戻ると奥様とおキヨさんが忙しくしていた。「すいません遅くなりまして…すぐに仕事に戻りますから奥様は休まれてください」 番頭さんは慌ただしく前掛けを腰にしばりつけると店へ出て行った。「番頭さん、配達が一件あるからそっちをお願…
シイエはふと田舎の神父様の話を思い出す。そうだ!教会だ!教会へ行けば姉ちゃん達に会えるかもしれない… シイエは番頭さんに話を切り出した。「ね、番頭さん田舎の神父様が大浦ってとこに綺麗な教会があるって言いよったとけど…どこか知らんですか?」「…
丸山で一軒目のその料理屋には大きな庭があり、きれいに花を生けた花瓶がおかれている。見たこともない広い玄関を二人はきょろきょろしながらくぐり抜けた。「おはようさんです!おかっつぁま花幸でございます新しい奉公人のご挨拶に伺いました」「はーい」…
食事も終わりに近付き奥様が口を開いた。「食事が終わったら番頭さんと一緒にこの辺りを教えてもらいなさいね。ゆっくり回ってらっしゃい」「得意先回るとも忘るんなよ」 旦那様も番頭さんに言った。「はい…旦那様わかっております」 二人は店を出て近所の…
朝の光が二人の少女の顔を眩しく照らす。長崎での暮らしが始まったのである。「うーん…シイエちゃん起きらんばばい」「うん…わかっとるばってんさぁ…布団の気持ちよかけん起ききらんとさね」「そうさね、これから寝るとも楽しみになるばいね」 布団の中でそ…